滅びの国を観た

職場の読売新聞の夕刊で東山さんの記事を探していたら、その下にこの滅びの国の記事があった。あぁ、これ不二役の三津谷くんが出る舞台や。
はじめの方はダンスも演技も頭ひとつ抜けていた、上手い人。
今度の舞台は劇団の名前が文字化けして読めなくて、TLに流れてきても流し読みしてた劇団。
記事で、「ロジック」と読むのだと知る。

ジャケットが優勝!この舞台を観に行きたいと思わせてくれた。
あと、取材記事と、下北沢という猥雑な立地に惹かれて、ちょうど小越勇輝氏のディナーショー行くので、テニミュキャストの今を辿る旅にした。
行ってみたかったんだ、本多劇場。昨年関数ドミノを上演していた劇場である。
観終わってまず思ったのは、おいおい、あらずじに書いてあった「愛している」という台詞がないじゃないか、それを聴きに来たとしても過言でないのだよ、と思ったが、「でも俺はそのホクロ好きたけどな」がそれに該当するだろうか。愛するということに準ずるというか。
まあ、その後に、祥示を引き留めようとする主人公に「うざいんですけど」「営業妨害です」と態度を翻すためのリードだとは思う。


夫と二人で暮らしていても外部とのつながりが薄く、閉ざされたコミュニティの中で孤独をかかえる主人公と、シェアハウスという寂しさとは無縁であるような住居事情の中にあっても、本当の意味で理解し合えないむなしさを背負う若いツバメ、そんな二人の境遇は遠く離れているようで同じである、ということなのかもしれない。
主人公には就労という自己肯定がまず足りない。
祥示はフリーランスでコールボーイとして働いているので、組織へ帰属意識がない。
就労状態が不安定なところも二人に共通している。

孤独の快適さを知っている私には彼らはとても奇異に映る。
私は一人暮らしかつシングル女性のため、主人公には働けばいいじゃない、夫とは離婚すればいい、と思うし、祥示くんは住むところのレベルを下げて、一人で暮らせばいいのに、と思ってしまう。

一人ではない、結婚していて本来孤独ではないはずの主人公。結婚相手がいてもわかりあえない孤独というものがあるらしい。
最終的に主人公は離婚することで自由を手にして、孤独であることが当然の身の上になるわけだが、そもそもなんでお見合いしてまで結婚したのか理解できない。結婚していない異質な存在だと周囲に思われたくなかったのだろうか。

祥示。子ども時代の祥示が夜更かしをしているのがばれると怒られるから、部屋の明かりを消して、まだ明かりのついている外の家々を見ていた、というエピソード。家族がいるのに孤独ということなのだろうが、ここで三津谷くんのマジの涙なのか、涙ぐむ演出なのかわからんが、涙を見せ、後にぬぐっていた。
でも、わかんないんだわ。明かりを消した窓の外に他の家の明かりが見えるっていうのが田舎出身者には。この話を友達にしたら、そりゃ隣三軒の隣でさえ100メートル以上先で様子もうかがえない状態じゃ共感できんわ、と言われた。
すみません、農村出身なもので。
自分に落し込めない境遇の人たちばかりが出てくるのだ。

人がたくさん住んでいるところで人間関係が希薄な状態で住むのがいいか、過疎化の進んだ村という閉鎖的なコミュニティで暮らすのが良いか、どちらがいいか、大人になった今なら断然、前者である。
一人暮らしも長いので、孤独とは背中合わせに生活しており、孤独と親しくしている。孤独とは自由であり、ひどく心地いいものである。
寂しい、と思うのは年に1回あるかないかで、孤独とはマブダチである。
集団生活をする中で例えば仕事だとか学校だとかその中で社会に迎合して、人間関係を築く必要があるが、私的な時間、給料が発生しない時間に、誰かに合わせ、人と話すのは、よっぽど相手が好きでないとしたくはない。
と、文字にしていると自分がかなりの個人主義の人でなしのような気がしてきた。

なぜ、この登場人物たちは人と一緒にいたがるのだろうか。

とはいえ、随所随所に共感ポイントが転がっていた。

共感できるポイント2つ
1、主人公のリアクション
ぐいぐい距離を詰める祥示に「距離感!」と言うところと、なんだか可愛い相手に「クフッ」とうめき声のようなよくわからない声をあげるとこころ。そう、そういう生き物、女の人って。わかるわぁ、リアルな反応だわぁ。そうなっちゃうよね〜とほほえましく感じていたら、周りのお客さんがめっちゃ笑ってて、ここ笑うとこ!??となった。

2、自分の身をわきまえて生きる
太った女性が「今まで自分の身をわきまえて生きてきましたから」という台詞を言うのがだが、これが刺さるのだ。これは何かしらのコンプレックスを持った全ての人に言える事。自分は社会ではここらへんの階級だから、そこのとこはわきまえている。高望みはしないというリアルだ。太った女性にとって「これまでわきまえて生きてきた」は過去の話。彼女は向上心があり、太っていても面白ければ、マツコ・デラックスのように尊敬される、と将来は成功を目指し、バズるためにシェアハウスの住人を題材にしたノンフィクションのブログを書くわけである。
わきまえて生きる、つまりは割り切ることも肝要なのだ。
と、ここで自己への落とし込みに成功する。
例えば、30才も近くになってきて、大人になってくると、自分の人としての限界がどこなのか、わかってくる。きっと今以上の事が出来ると、もっと自分を信じたいが、それでも現実が見えてくる。人生80年と考えると、どんなに成功したくても、自分の限界やの伸びしろの僅かさと向き合いながら、自分に見合う形の成果で自分を納得させて生きて行く時間の方が長いのだ。
私も今まで自分をわきまえて生きてきたし、これからもわきまえて生きて行こうと思わせられた。
中国人留学生が「祥示さんには私くらいがちょうどいい、どちらも空っぽ」という趣旨の主張をするのだが、これもわきまえて生きると似ている。
わきまえた者同士、ここで妥協しませんか、というわけだ。

疑問なのだが、あのシェアハウスに住む人たちは何歳くらいだろうか、20歳前後くらいの設定か。客演の三津谷氏と同じくらいの30前後と言うよりはもっと若い気がした。祥示の「俺みたいはガキ」という台詞におばさんと対比だとしても、自分の事ガキと言える年齢は19くらいまでかなーと。精神の幼さと高校時代のエピソードを出してくるから、大学生くらいの年齢だよな、多分。シェアハウスに住む人若人二人が寄り添って新潟の高校の頃の歴史の授業の話をするシーンが平和で和やかでけっこう好き。

お!と思ったシーンは
喫煙シーン。まあ煙草吸う役じゃない限りは人の煙草吸っている姿なんて見ることないですよ。今、この瞬間、本多劇場は火災報知機切ってんのかな、と思いつつ、うわぁ、喫煙シーンだ、貴重…と思った。今まで喫煙シーンのある舞台は熱海殺人事件しか観た事が無くて、こう、煙草吸いそうにない人が吸うっていう意外性にうわぁ…引きつつも、ぐっときた。薄暗い明りの中で煙草を吸うシーンで一気にこの演劇に引き込まれた。

祥示の衣装、初対面の主人公と祥示の会話の糸口にもなった「cold war」のパーカ、グレーで可愛らしい。
次にブルーのネックが優雅なニット、この衣装が女性的な彼の魅力を引き立てていた。
そして、最後に事件が収束して再開した時のダウンコートに薄い色のデニム。このダウンとデニムが前述のブルーのニット対して絶妙にダサい。若いツバメ感が消えているのは、おそらくコールボーイをやめ、収入が減ったため、優雅ないいお洋服を買えなくなったということなのではないかと推測する。

祥示、祥示って打ってて気づいたのだが、この男の名前、示してばかりではないか、こんな重複する編のある名前、一発変換で出ないはずである。

主人公の名前は最後まで祥示は知らないままで、そのことを祥示に示されても主人公は「いいじゃない」とかわすのだ。
名前が無い事で客が共感しやすいようにしているのか、最後にそういえば最後まで祥示は知らないままだったとびっくりさせるのためなのかな、と思ったが、私は主人公はもう死んでいる説を推したい。

先日の年末年始に起床した際、結婚したばかりの姉の書く年賀状で、姉のフルネームを見た弟が言ったのだ。
「○○○子はどこにいったの?」
姉は言った。
「○○○子は死んだよ」
そして生まれ変わった、というわけではなく、姉の旧姓は下の名前も道連れに死んだと聞かされて、妙に納得がいった。